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2008年04月03日

北魏の前身


こんな計画があった事知りませんでしたね。
本当に奥が深いです。


北魏の前身は代国であり、その中枢部分は鮮卑拓跋部である。代国は前秦の苻堅により、一旦は滅ぼされるが、苻堅が淝水で大敗したことをきっかけに再興され、その後は順調に勢力を拡大し、439年に第3代太武帝の下で華北を統一した。

しかし北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力の中心となったのは、主に漢民族出身の者たちである。彼らにとっては中国化が進めば自らの立場が有利になるということでもあり、また漢文化が異民族に勝利したという結果によって、見下していた異民族に支配される屈辱を晴らす事にもなる。この漢化派の代表が漢人の崔浩である。崔浩は外来宗教である仏教を排撃するために、道教教団の教祖寇謙之と手を結んで太武帝に廃仏(仏教弾圧、三武一宗の廃仏の第1)を行わせた。また崔浩は漢人官僚を多く登用するなど漢化を推し進めたが、強引過ぎる漢化は鮮卑派の反感を買い、450年に誅殺される。その後の北魏では太武帝が暗殺され、しばらくの間は混乱が続く。

この混乱を収めたのが文明皇后である。文明皇后は第5代献文帝の乳母で、466年に政権を握っていた乙渾を排除し、献文帝を擁して垂簾政治を始める。後に献文帝に長男の宏(後の孝文帝)が生まれると、一旦は表舞台から引き下がるが、孝文帝の生母を殺したことで献文帝と対立し、これを廃位して孝文帝を擁立した。北魏では外戚対策として皇帝位を継承した後にその生母を殺すことが通例であった。文明皇太后は引き続き垂簾政治を行い、班禄制・三長制・均田制などの諸制度を実行して、中央集権化・漢化を推し進めた。

これに反発した国粋派は何度か反乱を起こすが、孝文帝期のものは全てほどなく鎮圧された。しかし孝文帝死後にはますます激しくなり、523年に始まった六鎮の乱は全国的な規模へと広がり、北魏滅亡のきっかけを作ることになる。六鎮とは元首都の平城周辺を防衛していた六つの軍事駐屯所のことで、ここには鮮卑の有力者が配されていた。平城が首都であった時にはこの六鎮は極めて重要視され、その待遇もかなり良かった。しかし洛陽遷都により、これらは辺境防衛の一つに過ぎなくなり、待遇も下落し、ここに駐屯していた軍人たちの不満が六鎮の乱の直接的原因となった。

この乱が起きている間に、朝廷では第8代孝明帝とその生母である霊太后の間での主導権争いが起き、528年には霊太后により孝明帝が暗殺され、朝廷内外で混乱は頂点に達した。

六鎮の乱は爾朱栄が孝荘帝を擁立して一旦は収まるが、爾朱栄は孝荘帝によって殺される。その孝荘帝を爾朱栄の一族が殺すが、更に爾朱栄の部下であった高歓が爾朱一族を皆殺しにし、政権を掌握した。高歓によって擁立された北魏最後の皇帝孝武帝は、高歓の専権を嫌って関中一帯に勢力を張っていた軍閥の長である宇文泰を頼って逃れた。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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